ローマ人への手紙4章25節
創世記15章には、後にアブラハムと呼ばれる事となる、アブラムが登場します。高齢となり子どもがいませんでしたが、「あなたの子孫は空の星のように数えきれないほどになる」との神様からの語りかけを信じました。創世記15章6節には、こうあります。
「アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。」
この、「信仰によって義と認められる」事が、新約聖書・ローマ人への手紙に、「信仰義認」として書いてあります。
アブラハムはまだ割礼を受けていない時に神様を信じました。その信仰を神様は義と認めたと、パウロは創世記15章から説明します。ちなみに「義と認める」とは、「罪と認める」の対の言葉です。罪と認められた者は罪人で、義と認められた者は義人です。アブラハムが信じた神様は、唯一の神様ですから、割礼を受けない異邦人の神様でもあり、アブラハムが信仰によって義と認められたように私たちも信仰によって義と認められるのだ、そう語っています。アブラハムが割礼を受けるユダヤ人の父であるだけでなく、割礼を受けない私たちにとっても、「信仰の父」です。正しくは、「信仰によって義と認められる者の父」なのです。
上記の御言葉(ローマ4:25)は、旧約聖書でたくさん用いられている、平衡法で書かれています。そして、こう言い換える事が出来ます。「主イエスは、私たちが背きの罪を赦され、義と認められるために、死に渡され、よみがえられました。」
何が言いたいのか、それは、「イエス様の死と復活は対になっている」という事です。いつの時代も、キリスト教を信じようとする時に、十字架の死については理解できるけれど、死からの復活は信じられないという反応が起こるものです。しかし忘れてはいけません。私たちが信じるイエス・キリストは十字架で死なれ、死からよみがえられました。
アブラハムは常識ではなく信仰で受け止めました。同じように、私たちに求められているのは、私たちの常識で捉えるのではなく、私たちの常識を超えた存在がおられ、私たちの常識を超えた働きをなされた事を、信仰によって捉えるのです。

父なる神様は、聖書の時代のイスラエル人だけでなく全ての時代の全世界の人々が、罪人と認定され死んで滅びていくのではなく、義人と認定され永遠のいのちに生かされるように救いの道を開かれました。それは神様の、私たちへの愛によっているのです。
(by 牧師)