「熊谷キリスト教会 月報 2024年7月」より

私たちは、御霊によって生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。

ガラテヤ人への手紙5章25節

「イエス・キリストと一つに合わせられて、聖なる者へと造り変えられて行く」事を、 あと一歩深めるために、ガラテヤ人への手紙5章後半、18節から26節を開きます。イエス・キリストを、私の救い主と心に迎え入れた者は、律法の下にはいなくても、内に住まれる聖霊・御霊に導かれて、19〜21節のような肉のわざに留まっておらず、22〜23節にあるような御霊の実を結ぶ者へと造り変えられていくのです。24節では、「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、情欲や欲望とともに十字架に つけたのです。」とあります。ガラテヤ2章では、「十字架につけられました」と受動的に 書かれ、5章24節では、「十字架につけたのです」とあるのです。十字架につけられた事を覚えつつ、自らも能動的に応答するのです。そして25節では、「私たちは、御霊によっ て生きているのなら、御霊によって進もうではありませんか。」とあり、私たちの信仰による積極的な応答が求められているのです。

ガラテヤ人への手紙5章25節のイメージ

テキストの終わり26節では、「うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりしないようにしましょう。」とあります。ティンデル聖書注解「ガラテヤ人への手紙」では、ここにある「互いにいどみ合ったりしないで」を、「互いに異議を申し立てあう事をしてはならない」と解説しています。私たちは、会話が議論へと発展して、お互いの意見に異議を唱えるという事が、様々な場面であるように思います。私の場合、教団や教会での会議での、そうしたやり取りを思い浮かべます。そうした議論が、肉のわざであるとは思わず、 教団や教会がより良くなるために必要な意見交換であると考えてそうするのですが、そうした異議申し立てによって相手を傷つけたり、またそのやり取りを見聞きしている方々を傷つけたりしているという事が、残念ながらあるものです。聖書の中に、このような御言葉による警告がある事を覚えたいと思わされております。

(お祈りをしましょう)

真実と恵みに満ちておられる、私たちの父なる神様。御名をあがめます。あなたの恵みのうちに、イエス様を救い主と信じる者とされ、イエス様の御霊・聖霊を内に宿す者とされております。御霊によって進もうではありませんか。御言葉からそう勧められていますが、自分の正義をかざし人の意見に異議を唱えて、うぬぼれやすい者であると自覚しております。どうぞ、御言葉によって、御霊の促しによって、私たちを造り変えて下さい。私たちの内に、外に、御霊による新しい創造が現れてゆきますように。 救い主イエス様のお名前で祈ります。 (アーメン)

(by 牧師)