4月14日礼拝動画と説教要旨

礼拝動画

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説教要旨

エズラ10:1~9『悔い改めとは主に向き直ること』

10章1~5節にあるように、エズラが悲しんで神様に祈っていた時、エズラと志を同じくする者たちが、律法に従って為すべきことを為して下さいと励ましたのです。そしてエズラは立ち上がったのでした。10章6節以降にあるように、イスラエルの民が神殿の前の広場に集められました。とても緊迫した場面です。9節に、『すべての民は神の宮の前の広場に座り、この件で、また大雨のために震えていた。』とあります。

反対の声も上がりました。しかし民は、異教の神々への信仰を捨てて主なる神様に帰依する事のない妻を離縁する事とし、何より神様を第一としなかった事を悔い改め、罪を赦して頂くための代償のささげ物として、雄羊一匹をささげたのでした(19節)。

エズラは言ってみれば、律法学者の先駆けとなった存在です。

エズラ記には、バビロン捕囚という苦しみをイスラエルの民に通された後に、帰還の約束を果たされた神様の真実、そして神様に立ち返っていく人々の姿があります。思いを与えられ力強く神殿を建て上げていく民の強さ、しかし時間が経過する中でまた、罪がはびこっていく民の弱さが。そしてエズラと、同じ志を与えられた者たちによって改革がなされて行く姿があります。これは、ネヘミヤ記も合わせて一つの頂点であるように思います。 

ところが民は、また過ちを犯していき、負の循環に陥っていく事が、続くネヘミヤ記には記されているのです。

エズラ記10章をどう読むのか、「仲保者が不在で、人が神様の前にとりなす事の限界が示されている」と言う理解です。エズラによる悔い改めの集会は、そうした限界点を示し、人々にメシアなるお方、神様と人との唯一の仲保者である救い主イエス様への待望へとつながる出来事である。私はもう一度この箇所を読み、新たな理解へと導かれております。