「熊谷キリスト教会月報2025年9月」より

人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛は誰も持っていません。

ヨハネの福音書15章13節

聖書の中に、特に旧約聖書には、神様のもとを去って神様を無視して自分のやりたいように生きてきた人間の歴史が書いてあります。それでも歴史の中で、ある人たちは神様に祈るようになります。そして神様は人間に愛を示し、人間が神様と共に歩む道を用意されたのでした。ところが人間は、神様と共に歩みたい、神様を信じ、神様の教えを守って生きたいと思っても、心の底にある罪によって、神様よりも自分の都合を優先して罪を犯してしまうのでした。心の内側にある罪が外側に現れて、幾つもの罪を犯してしまう、不自由な罪人として生きる他はありませんでした。

そんな人間の歴史をご覧になった神様はどうしたでしょうか? どうしたら人間を罪から救い出せるだろうか。そうお考えになり一つの決断をなさったのでした。それは、神の御子を人間としてこの地に送り、人間の罪の身代わりとする事でした。神の御子が犠牲となって罪の罰を受ける事で、人間が罪の罰を受けなくて済むようにというご計画をなさったのです。

この神様のご計画は、旧約聖書の中に幾つも書いてあります。そのうちの一つ、イザヤ書53章には、「彼」と書かれた一人の人物が登場します。その「彼」は、人々から嫌われて、のけ者にされていました。「彼」はある時、処刑されてしまいます。それを見た人々は、こう考えました。「彼は自分で犯した罪のために神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだ。」ところがそうではありませんでした。自分勝手な道を歩む人々の罪の身代わりとなって命を犠牲にしたのです。彼が打たれた傷によって、人々の罪が赦されるのです。

イザヤが神様から預かった預言の数々はイスラエルの人々に伝えられ、人々はイザヤ書53章に語られている「彼」を待ち望んで行きます。イザヤの時代から700年が経った頃、実際の歴史の中に、「彼」が現れます。それがイエス・キリストの誕生なのです。

ウリクサとアイナエ

イエス様は最後の晩餐の席で、いよいよご自身が死ななくてはならない事を語ります。心配する弟子たちに言いました。「友のために命を捨てる、これよりも大きな愛はありません。」イエス様は友に命を与えるために、友の身代わりとして十字架にかかったのです。その友とは、誰の事を指しているのでしょうか? イエス様を私の救い主と信じ、イエス様の愛にとどまり、イエス様の教えに従って生きる、全ての人を指しているのです。

イエス様は、友であるあなたのために命を捨てて下さったのです。

(by 牧師)