8月31日の礼拝動画と説教要旨

礼拝動画

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説教要旨

「満ちあふれる喜び」IIコリント8章1~6節
この時代の背景として、当時エルサレムに飢饉が起こり、人々の生活が厳しい事態に陥っていた。そのような中、アンテオケ教会が救援活動を開始していた。(使徒11:27-30)
1「極度の貧しさ」は「満ちあふれる喜び」と並列なのか
2節には「満ちあふれる喜び」とあるが、確かにこれは「神の恵み」といえるだろう。しかし、並べて「極度の貧しさ」をも挙げている。これは恵みなのだろうか。続けて「激しい試練の中」とまでいっている。
「満ちあふれる喜び」の結果として、惜しみなく富を施すという行為につながったと捉えている。「極度の貧しさ」を「惜しみなく施す」ことの動機の一つと解釈している。つまり「貧しかったのに」献げたのではなく「貧しかったから」献げたのである。
2 困難さへの共感がキリストの交わりへとつながる
マケドニアの諸教会は、貧しさの故にエルサレム教会の実情を自らの困難さとして共感することができた。そこで、自らの貧しさが、神様に救われた喜びと並ぶ献げるための動機となったのである。
共感することができたからこそ、自発的に献げる気持ちが起こり、それが奉仕の恵みとして捉えることが出来た要因である。
この共感は、イエス様にも見られるもので,エルサレム教会に対してだけのことでなく、イエス様の苦しみにも共に連なることへとつながっていく。そしてそれは、キリストにあって一つという意識にもつながっていくものである。