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説教要旨
イザヤ書6章1~13節『死に向き合って生きる」
イザヤ書6章は「ウジヤ王が死んだ年に」と始まります。具体的には紀元前740年、イザヤは主の臨在に触れたのです。1節に「神殿」、4節に「宮」、6節に「祭壇」とある事から、エルサレム神殿での出来事かと思われますが、実際に神殿で起きた光景なのか、幻によって見せられた光景なのかはわかりません。
イザヤは圧倒的な光景を目の当たりにし、主なる神様の臨在に触れて、死を覚悟しました。聖なる神様の前に、唇の汚れた民の間に住んでいる唇の汚れた者である自分は、滅ぼされてしまう他は無いと恐れを抱き、死を覚悟したのでした。
ところがイザヤは主の取り扱いによって汚れがきよめられ、罪が赦された事を一方的に宣言されたのでした。死をまぬがれ、生きる事をゆるされたその時、イザヤは主が言われる声を聞いたのでした。(8節)「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」そしてイザヤは答えました。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」唇の汚れた者が汚れを取り除かれ、唇の汚れた民へと遣わされる預言者へと召されました。
主なる神様と、預言者となる事を心に決めたイザヤとの間に交わされたやり取りが、9節以降に続いています。ここに描かれている事は、わかりやすく言うと、こういう事でしょう。
「あなたが行って告げても、民の心は鈍く、耳は遠く、目は閉じていて、主に立ち返ることは無い。そうした状態が続き、国は荒れ果てて、民は遠くへと移され、この地に見捨てられた場所が増えるまで、唇の汚れた民は立ち返って癒される事は無い。」
預言者として遣わされて行こうと心に決めた者に、絶望的な木来が示されたのでした。そのような絶望的な状況でも、主なる神様は、民へと主の言葉を伝える預言者を必要としたのでした。
そして13節には圧倒的な絶望の中に残る、わずかな希望「聖なる裔」の存在が示されるのです。