「熊谷キリスト教会 月報 2024年3月」より

キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。

ペテロの手紙第一2章24節

イザヤ書6章には、イザヤが青年の頃、一人神殿で祈っていたときに示された幻について記されています。彼は、同胞イスラエルの人々が、アブラハム以来の契約の民であるにもかかわらず、形だけは礼拝をしながら、その心が神様から離れて、それぞれの好き勝手に生きている姿を嘆いて祈ったのでした。すると不思議な現象が起こり、神様の臨在に触れたイザヤは、それに対して自分自身がいかに汚れているのかを自覚させられたのでした。しかし、御手がのばされて汚れが取り去られ、神様からの招きがなされた時、「ここに私がおります。主よ、私を遣わして下さい!」そう応答し、以来イザヤは、神様からの言葉を預かり、イスラエルの人々に伝える預言者となったのでした。王家に近い家柄に育ったであろう彼が、おそらくは貧しい暮らしをしたこと、何より人々に遣わされても聞き入れられず、語っても語っても、人々の心に何の変化も起こらない状況を、どんな思いで過ごした事でしょうか。

それでもイザヤには、いつも神様の臨在があり、語りかけがありました。語りかけの多くはイスラエルの未来に関するもので、国が滅びていくという悲惨なものでした。しかし預言の数々の中には、まさに宝物のように輝く、救い主誕生の知らせがあったのでした。

闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の影の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。

イザヤ9章2節、6節前半

そして、民のために生まれた男の子がどのように歩み、どのような死を迎えていくのか。その死にはどんな意味があるのかが記されているのが、イザヤ書53章なのです。

私たちは知っています。イザヤ書53章に示されているのは、救い主イエス様の御生涯、さまよう羊のために身代わりの死をとげられ、よみがえりである事を。そして、それを受け止め、信じ、イエス様を心に迎える一人一人に救いが与えられ、肉体の死で終わらない、永遠のいのちが与えられるのです。

さらにペテロの手紙第一2章には、イエス様の一番弟子であったペテロが晩年になり、迫害の厳しい時代に置かれる主にある兄弟姉妹たちに、イザヤ書53章に記された救い主を指し示し、その成就であるイエス様が、父なる神様とともにありながら忍耐し、救いの御業を成し遂げた、その模範にならうようにと励ましているのです。

教会近くの荒川沿いの土手で同時に咲く桜と菜の花

(by 牧師)